DSC_0923

ブログやTwitterが流行したことで、誰もが書き手になれる時代がやってくる――。ここ数年そんなことが言われてきました。多くの人気ブログが生まれ、またTwitterを使う個人がジャーナリストのような役割を果たす場面も出てきました。

書き手の総量が増えたことで、結果としてウェブで見るべき一次ソースが爆発的に増加しました。そして次に求められたのは、溢れかえる情報の整理整頓です。もちろん検索サービスはその役割の大部分を担っていると言えますが、それだけでは徐々に足りなくなってきました。リンクが羅列された検索結果よりも、人が編集した“2ちゃんまとめブログ”やNAVERまとめの方が楽しいと感じる方もいるのではないかと思います。

検索も2ちゃんまとめブログも、どちらもウェブにおける情報の整理整頓ですが、後者の人手による作業は最近、“キュレーション”とも呼ばれています。何らかのテーマにそって情報を整理し、まとめておく。こうしたキュレーション活動によって、検索を超えた利便性、楽しさを提供できている場面が多く見られるようになってきました。2ちゃんねるまとめの他にも、NAVERまとめ、Togetter、Tumblrなどさまざまです。誰もが書き手になれる時代に続いて、「誰もが編集長になれる時代」が来たと言えるでしょう。

しかしツールが揃っただけで、本当に誰もが編集長になれるのかというと、疑問が残ります。スキルやノウハウの共有も必要です。そこで、この「東京編集キュレーターズ」というイベントでは、ウェブ上の情報を整理整頓するキュレーターが知っておくべきことについて、継続的に学び、また情報共有できる場を提供することとしました。

第一回のゲスト講師は数々の雑誌を手がけた編集者の菅付雅信さんです。NHN Japanの田端信太郎さんが聞き手となり、ウェブを中心とした次世代の編集者やキュレーターがメディアの仕事で生き残っていくための心構えについてディスカッションしました。以下、イベントレポートとして当日の様子をお伝えします。


田端さんから菅付さんと来場者に5つの質問

――ウェブメディアのクオリティは紙メディアより低い?
DSC_0984

この質問に会場は半々くらいがYESと回答。

菅付 ウェブは誰でも参入できる。プロの比重の問題で、どちらかというと紙はプロが多い分、クオリティが高い。ウェブはアマチュアの比重が高い。
田端 ところでクオリティとは何でしょうか。
菅付 「ウェルメイド」と「ウェルコンシダード」。つまり、よくできていることと、よく考慮されていること。それがあわさったものがクオリティです。
田端 紙がウェルコンシダードなのは、紙は印刷してしまったら直しがきかないからではないでしょうか。一方でウェブは直せる。だからウェブはウェルコンシダードの必要がない。よくも悪くもウェブは甘いとも言えそうですが。
菅付 終わりがない良さがあるし、ばしっと終わる気持ちよさもある。それはケースバイケースだと思います。
田端 よくウェブと紙はフローとストックと言われます。雑誌はどうでしょう。
菅付 週刊誌は読んだら捨てればいい。月刊誌は面白い存在です。9月に出る号は10月号となっており、10月以降のことを書いています。これからこんなお店がオープンすると予言している。週刊誌は先週までのことを書いていますが、月刊誌は予言する雑誌なのです。
田端 「月号」が繰り上がっているのは意味があるということですね。
――編集とはオリジナリティのある価値を生み出すものである? DSC_0998

会場の反応はYESがやや多い。

菅付 オリジナリティは永遠の議論。アートだろうが、広告だろうが、100%オリジナルは存在しません。必ず何かの影響は受けています。編集におけるオリジナリティは付加価値かもしれない。人間は料理をする動物。どんな人種だろうが必ず味をつけます。同じように編集は情報を料理して人に食べさせる行為。味をつける、おいしくするところに価値があります。食べたことがない料理であればオリジナリティが高い。食べたことがある料理であればオリジナリティが低い、ということになると思います。
田端 そういうことであれば、素材を活かす料理と豪華フレンチ。どっちが上でも下でもないと。
菅付 そう思います。
田端 何かの引用で成り立っているTumblrやPinterest、NAVERまとめ、まとめブログ。そういったメディアはオリジナリティがありますか。あるいはコンテンツのタダ乗りですか。
菅付 アイデアとしてありだと思います。けしからん、という風にはあまり思わない。音楽ではヒップホップとかと同じ。編集としてありです。
田端 ニコニコ動画とかも編集と言える?
菅付 まさしく。
――編集者は黒子に徹するべきである DSC_0999

会場の反応は9割がNO

田端 編集者が表に出たがるのはエゴなんでしょうか。
菅付 最近思うのはある程度、目立つ仕事をしているクリエイターは黒子でありえないということ。何か目立つモノ、ウェブ、イベントなどを作ったとします。そうすると本人が意図しなくても、周りが言及してくる。特にネットでは黒子が可視化されます。本人は透明人間のつもりでも、好むと好まざると可視化されてしまう。ネットで可視化されるなかで、裏方的な気持ちのクリエイターはどうすべきか。もちろん黒子的でいることは可能だけど、出たい人は出ればいいと思います。

もっと言うと、クリエイターのエゴには2つあるのです。自分という存在が出たいというプライベートなエゴ。それと映画監督みたいに作品のプロモーションのために出るというエゴ。

僕が思うに、プロのクリエイターはプライベートなモチベーションではいけません。パブリッシュという言葉は「物事を公共化」すること。これが基本思想。私はプライベートな気持ちで作ったことは一度もないし、誰か特定の知り合いに伝えようとして作ったこともありません。
田端 パブリックであること。それは例えば自分の私小説的なものではなく、読者がいて、何らかのメリットを提供してこそ成立します。昔はパブリックにする時点でチェックが入っていましたが、いまはブログ、まとめサイト、Twitter、Facebookなどですぐできてしまう。ウェブでは「自分のアウトプットはパブリックなものである」というマインドを持ちづらい。それを気にしすぎるのもつまらなくなりそうです。

ウェブの場合は参入障壁が低いので、作り方のプロセスも個人完結されているので自分を貫けます。例えばメルマガがそう。その人の個性で貫かれています。最近は専制君主的な編集長といえば個人メルマガだけになりました。だけど反面、社会性が薄れてしまう。

Tumblrでインタビュー記事や写真を引用することもできますが、パブリッシュという意味で、それはちょっと寂しいと思いますか。
菅付 メディアの戦場でサバイブするためにどうするか、でしょうね。Tumblrで引っ張ってきてまとめるのもいまの編集。でもそれで本人はサバイブできるのか。そういういろいろな情報、出来事、人間をファーストハンドで掴めているかがサバイブのポイントです。Tumblrも立派な編集。そこでサバイブする人は出てくるが、そんなに多くないのでは。
田端 ウェブの片隅に存在していたけれど、誰も目にかけなかったおもしろコンテンツを世にしらしめるのはどうでしょうか。
菅付 セカンドハンドのなかのトップですかね(笑)。ファーストハンドは生の素材に触れるということです。
田端 同じ出来事についてTumblr、NAVERまとめ、Pinterestで編集したとしても、その現場にいた人が引用するのと、普通のユーザーが引用するのとは違ってくるということですか。
菅付 そういうことですね。
――紙メディアの編集ノウハウはウェブメディアに活かせる?
DSC_1005

1人だけNO

菅付 お互い乗り入れ可能だと思います。
田端 相互乗り入れするときに意識すべき違いは何でしょう?
菅付 ウェブではフローの情報を見て、紙ではストックを確かめます。読み手のマインドがすごく違うのです。合う人は両方に向けて作れますが、どっちか一方が好きという人もいます。何らかの共通性はあるが、アウトプットがどっちに向いているかです。
田端 雑誌には台割のリズム感があります。台割のマジック。その文脈ってウェブで再現できていないように思います。どんなふうに考えていますか。
菅付 映画の編集を参考にしています。近代映画の編集手法はセルゲイ・エイゼンシュタインが「戦艦ポチョムキン」で確立しました。彼はモンタージュ理論を作り、それに則って映画を編集しました。モンタージュ理論とは、Aという流れに別のBという流れをはさむことでCが生まれる、ということです。

それまで映画はドキュメンタリーのようにはじめから順番に撮っていました。エイゼンシュタインはばらばらにとって組み合わせ、編集したのです。関係ないものが組み合わさることでリアリティが生まれた。雑誌もそうで、時間軸、説明度合いだけ考えるとあまり面白くありません。あえて意外性を出したり、順番をずらすことで、音楽的なアンサンブルを組む。それがすごく大事です。
田端 そういうリズムはウェブで再現できるのでしょうか。もっとこうしたほうがいいとかありますか。
菅付 ウェブはどうやって見るかが決まっていません。トップページから見る人もいれば、検索経由で特定のページに来た人もいるから難しい。
――ネット上の編集者やキュレーターは、プロのクリエイター(社会から尊敬される存在)になれる? DSC_1028

会場の反応は半々

菅付 田端さんはどう思います?
田端 つまらない答えですが、人によりけりだと思います(笑) なれる人はなれる。なれない人はなれない。
菅付 クリエイターとは何かというと、クリエーションする人。ではクリエーションとは何かを考えましょう。
DSC_0965
菅付 メディアの役割は2つあります。1つは報道で、2つ目は創作・クリエーション。報道は伝達行為。創作は触発行為。伝達と触発は重なるが違う。伝達は事実で、触発は主観的。それらは異なる行為です。クリエイターは触発屋であり、編集者とかキュレーターも触発側にいます。触発とは、受け手の想像力を広げること。一方で伝達は広げちゃダメ。

クリエイターになれるか、というのは、つまりプロの触発屋になれるかどうか。ある雑誌で写真について語る連載をやっていて、以前アマナというストックフォトの会社の社長を取材しました。彼が写真の未来を語ったときの言葉にこんなのがあります。「いいカメラマンだけじゃもう生き残れない。生き残るにはすごいカメラマンじゃないと」。昔は撮っている人の数が少なかったから生き残れました。でもいまはみんなが写真を撮っています。海外ではマネタイズもできています。ゲッティイメージズという会社が契約し、素人が撮影してFlickrにアップした写真が企業の広告などに使われたら、撮影した人にお金が支払われるようになっているのです。

富士山の写真なんてプロ、アマで出来はそんなに変わりません。プロとアマの差はなくなってきています。ちょっといい写真じゃプロは食えない、というのはそのとおり。デジタルにおいてはアマがたくさん参入してきて、いろんなものを食えなくするでしょう。そのなかでどうやっってプロが生き残るか。それは、「すごいクリエイター」になることです。
田端 そのすごさとは、置き換え不可能なユニークさということですか。
菅付 いいクリエーションとすごいクリエーションの違いとは、発明発見があるかどうか。前例がないことです。「いいもの」とは誰が見ても気持ちいいもの。「すごいもの」は見たことない、触ったことない、前人未到なもの。そこにいかないとすごいクリエーターにはなれないでしょう。
田端 すごいクリエーターがネットにも出てきてほしいです。何が必要で、どうやってサバイブするのか。メッセージをください。
菅付 この会場にはプロかあるいはプロ志望の方が多いと思います。いまは職業選択の幅が広く、それだけに若い人は迷いがちです。でも僕が思うのは、早くいろいろなことを諦めて一つに集中すること。天ぷらもコンフィもなんでも得意な料理人なんて信じられない。おいしいものを食べるときには天ぷら屋とか寿司屋とか専門店に行きます。なんでもできる料理人はいないし、そんなの謳っているのはろくでもない。料理人は早いうちに自分の得意分野を絞っています。クリエイターもそう。早く正しく自分の才能をあきらめて、ひとつの領域に集中しましょう。
田端 自分の人生でやめること、捨てるものを決める。まずは人生を編集するのが大事なんですね。
菅付 そういうことです。ある分野で人脈をつくるのに20年はかかります。経験的に1つのことを極めるのはすごく時間がかかるのです。
田端 ネットが出てきて15年。そのときから携わっている人でもまだ駆け出し。前提条件も流動的で、CGMだって10年経っていない。「まだひよっこだからがんばれ」という温かいメッセージをいただいたと思います。ありがとうございました。